征西軍記2 太宰府攻略戦

さて、九州旅行の第二弾です。
久留米の朝は顔と手の痒みで目が覚める。
再び高良山へ向かう。

昨夜と同じ場所からの久留米遠景。

反対側に高良大社の鳥居がある。この急な階段を昇れば本殿がある。

ここ高良大社今川了俊によって大宰府を奪取された懐良親王が征西府を置いた場所である。
ここから大宰府奪還を画策して本陣と定めたのであった。
しかし盟友である武光を失い、さらに武光の跡を継いだ菊池家惣領の武政をも失うと征西府軍は高良山を撤退して菊池へ帰還するのだった。

高良山から見た筑後川合戦場の遠景。
正平十四年、少弐頼尚率いる武家方六万と懐良親王菊池武光が率いる征西府軍四万の軍勢が激突した太平記に於ける九州最大の合戦である。
写真中央から少し左上の場所付近が激戦地となった大保原(おおぼばる)です。
この合戦は頼尚の退却で幕を終えた。
この後、征西府軍は大宰府の攻略に成功して九州南朝方の最盛期を迎えるのである。

さて、高良山の麓の柳坂という所に線香持参、もとい千光寺さんという小さな寺がある。
なんとここには懐良親王のお墓があるのだ。
昨日の矢部にお墓があったと思われるだろうが、実は懐良親王筑後川合戦で戦死されていたと言う説があるのだ。
千光寺にあるお墓はその時ここで埋葬された際のものだという。

これが懐良親王の宝筐印塔である。本堂裏手の静かな木々に囲まれた斜面に築かれている。
その左右には一緒に戦死された北畠信親(?)達のお墓もある。

更に裏手の斜面を登ると懐良親王の墓陵がある。
こちらは古めかしくて趣がある。絵になる風景だ。
ちなみに宮内庁公認の墓陵は熊本の八代にあるが、今回は寄っていない。次は参りたいものだ。

千光寺を後にして北野付近から筑後川を渡河する。今は大きな橋があるから簡単に渡れるが、当時は橋などなかっただろう。
ましては数万の軍勢である。渡河の最中に攻撃されると大変なので慎重に渡ったであろう。
それにしても広い川だ。

無事渡河に成功した後は久留米方向に移動する。
次の目的地は宮ノ陣神社だ。
ここは筑後川合戦の時に懐良親王が陣を敷いた場所だという。

ここには懐良親王ゆかりの将軍梅がある。
そしてこの神社に祭られているは懐良親王と我らが良成親王じゃ!
町中にある静かな神社でした。

お次は筑後川合戦場の一画にある大刀洗平和記念館だ。
ここには旧日本帝国陸軍の航空隊がありました。
嘗ての駅舎を利用した記念館があり九七式戦闘機などが展示されています。
なお大刀洗という地名ですが筑後川合戦が終わった時にこの付近の小川で武光さんが血の付いた太刀を洗ったからだそうですよ。
さて、写真左側の塗りつぶしはこの場にそぐわない派手な車が停まっているからです。
近くのラーメン屋でラーメンを食べていたら店主がそのうち記念館が新しくなると聞かされた。
そうしたらまた訪ねてみたいものだ。

記念館の職員に教えてもらった大刀洗公園にある菊池武光さんの銅像
こちらは徒歩で馬を引いている姿です。

次に向かったのはこの古戦場にぽっかりと島のように浮かんでいる城山です。
山頂から古戦場を見渡せないかと思って昇ったのですが、標高が二百メートルもない筈なのに結構しんどい。バクバクですよ。

で、ここが苦労の末に制覇した俺たちの頂。
ちょ、まっ!木々が生い茂っていて周囲が見えない!!
この山は交通の要所のある筑紫平野のど真ん中にあるだけあって、
古来より重要視されてきたようだ。
本丸跡の石碑があった。

筑後川合戦場を北上して一路大宰府攻略を目指す。
この道は以前レンタカーで走った時はなかった道だ。
二年後に愛車で走る事になるとは思っていなかったよ。
さて、正面に見えてきたのは宝満山である。
この山には少弐氏が非常時に使用した有智山城がある。
ここで菊池氏と少弐氏の因縁を披露。
元弘三年三月、後醍醐天皇による倒幕運動が激化を辿る一方、菊池武時は鎌倉幕府の九州支配の要である鎮西探題を討つ為に少弐貞経と密約を交わしたのだが、貞経の寝返りの所為で博多で討ち死にした。
この菊池武時が武光のお父さんで、少弐貞経が頼尚のお父さんです。
三年後の建武三年二月、有智山城の少弐貞経菊池武敏に攻められて城は落城、貞経は自害したのであった。
武敏は武光の兄である。昔から菊池と少弐は相容れない仲なのであった。

天満宮近くに駐車して折り畳み自転車で名所巡りにはいる。
最初に向かったのは天満宮近くにある光明禅寺。鎌倉時代に創建された庭園で有名な古刹である。
通称「苔寺

まず境内に入ると枯山水の庭園がある。15個の石を「光」の文字に配した仏光石庭の前庭だそうだ。
ここまでは無料である。拝観料200円を払って堂内に入る。

本堂の裏側には青苔と白砂で陸と海を表現した一滴海庭の後庭がある。

菅原家ゆかりの鉄牛円心和尚が開山した禅寺である。堂内にはお寺独特の重厚な雰囲気が広がっている。

有名な太宰府天満宮(、がある太宰府)。さすがに平日でも参拝者が多い。
しかしみんな日本語の会話をしていない。海外からのお客さんばかりだ。
ここは梅ヶ枝餅が有名なのだが梅干しなどの梅が好きでないので味見はしない。

次は天満宮から西に300メートル程の所にある浦ノ城跡。
少弐頼尚時代の居城で尊氏の息子である直冬はここで頼尚の娘婿となった筈。
今は住宅地になっているので遺構は皆無。

御笠川に沿って自転車で移動。まるで奈良の平城宮付近のような雰囲気である。
そんな奈良みたいな感じな観世音寺だ。万葉集源氏物語にも出てくる風情あるお寺である。
写真は金堂だが江戸時代初めに再建されたものだそうだ。

さらに西北西に1キロちょい移動。すると筑前国分寺跡に着く。これは塔跡の礎石である。
きっと見事な三重か五重の塔がそびえていたに違いない。

水樹奈々!!
ここは古代の大宰府の護りであった土塁と水堀で築かれた水城跡。
ちょっと見づらいが背景きれいだよのこんもりとした木々が生えているのが土塁。

水城から大宰府に戻る途中にあるのが苅萱の関跡。
大宰府に入る関所があった場所で、今は道端に石碑があるのみ。

スザQ大路・・・ではなく朱雀大路。まあ大宰府のメインストリートなのだが今は地方道路。
当時はにぎやかな通りであっただろうが、今はひっきりなしに車が行き交う人に優しくない道路だ。
写真を撮るのも命がけだぜ人間大砲!

大宰府政庁跡に来る!
ここに来るのは三度目だが祭日明けに来る事が多く展示館が開いていたのは一回だけだ。
京都の大内裏は都市開発されて面影も無いが、平城宮大宰府は情緒があって好きだ!
あと宮城の多賀城跡も好きだな。感じ石原が似ている。

かつての政庁跡には礎石を模した記念碑があるのみ。
今から七百年程前に懐良親王菊池武光、そして我らが良成親王達がここにいたのだ。
そしてわずか十一年程ではあるが、ここに征西府が確かにあったのだと昔日を懐かしむのであった。

政庁跡の東側にある戒壇院。鑑真和尚が初めて受戒を行ったと言う。
こうしてみるとつくづく奈良や明日香みたいなのどかな風景。

戒壇は奈良の東大寺、下野の薬師寺とここだけで、ここで戒を受けなければ僧尼と認められなかった。
つまりは坊さんの免許センターだな。

市街を一回りした後は車に戻って四天王寺山を目指す。
ここは古代の大宰府の護り、大野城跡である。
山道をぐねぐね登って開けた場所を通り過ぎたと思ったら昔の石垣があった。

こんな感じに石垣が山裾をぐるりと囲っていたらしい。上の写真はその一部だ。

開けた場所に戻って付近を歩く。高台なので麓がよく見える。
青い屋根の大きな建物が九州国立博物館だ。

山頂の平坦部にある石碑。広場の真ん中に突っ立っているだけなので城跡らしくない。

大野城の少し下にある岩屋城。
天正14年に島津軍に攻め込まれた大友宗麟の家臣高橋紹運が討ち死にした城。
そういえば信長の野望に居たような気がするなぁ。

しかし、ここからの展望はよかった。岩屋城から見た政庁跡。
こういうアングルは好きだ。

同じく九州国立博物館天満宮の鳥居も見える。

そして水樹奈々(しつこい)。これだと水城を貫いて道路があるのがハッキリ解るだろう。

最後はちょっとわかりずらいだろうが大宰府の夕焼け。
沈み行く夕日に懐良親王南朝の行く末を想い重ねたのだろうか。それは彼の胸中でのみ語られた事であろう。

こうして大宰府散策を終えた後は、近くのスーパーで夕食を買い求めてから高速に乗り九州を去ったのであった。
その夜に一波乱あったのだがそれは次の機会に。
それでは今宵はこれまでに致しとうございます。