征西軍記3 そして都を目指して 上洛編 

此度の旅行記もこれで最後となりました。お付き合い頂いた皆様には感謝いたします。
さて前回の終わりに告げました一波乱ですが、それは上洛途中の高速での夜でした。
この日はすでにGWも終わり平日です。そうなると高速は長距離トラックの大軍勢で埋め尽くされていました。
右も左も前方も後方もとにかくトラック!あの高速走行中の閉塞感は怖い。
前のトラックに急ブレーキ踏まれても避ける隙間もない。これじゃ事故っても不思議じゃないよ。
そして寝場所を探してSAやPAに立ち寄るのだが、どこもトラックが占拠していていっぱいだ。
そんで大型用の駐車スペースが一杯なので乗用車用の場所でもお構いなくでっかいのが停められている。乗用車でさえ停める場所がない。
仮に乗用車スペースに停められたとしても奴らは隣りにやって来て停車中もエンジン止めないから寝てるとうるさいし臭い。
安住の地を探している内に翌日になってしまった。
結局、隣にトラックが止められない乗用車スペースの端っこに寝場所を確保出来たのは福山のあたりであった。
時間はAM2時だった。
そこで酒呑んでソッコー睡眠に入ったのでした。

翌日も山陽自動車道を東へ走る。
お昼頃にこの日最初の目的地、神戸に着いた。

源氏ファンなら神戸と言えば須磨だろうが、太平記ファンならば湊川であろう。
建武三年、南朝歴だと延元元年五月二十五日に九州から上洛した足利軍と
新田義貞楠木正成等官軍との間で行われた決戦場がここ湊川である。

その戦場跡に作られたのが湊川神社である。
ちなみにここには「戦艦筑摩の後檣」なるものがあるのだが、知らなかったので見られなかった。残念。

本殿では何かのお祓いをしているらしく巫女巫女ナースが踊っていたYO!!

そしてここが楠木正成最後の地だという。この奥がその場所だそうだ。
神主さんに申し込めば見せてもらえるみたいだが時間もないので飯屋に行く。
昼飯は神社前の定食屋で生姜焼き定食だ!
ここでカメラの容量が限界近くになる。PCは持ってきたがUSBケーブルを持ってくるのを忘れたので近くの電器屋を探す。
ヤマダ電器を見つけたのでケーブルを購入、データを移して容量確保。
次の目的地目指して高速に乗る。さらば湊川。さよなら神戸、小山荘のきらわれものよ!!

大阪は好きじゃないのでスルー。京都に入る。
ここは京の南の入り口を押さえる交通の要所男山。この山にあるのは源氏の氏神である石清水八幡である。

地理的に京を睨む戦略的要所なので太平記でもたびたび戦禍に巻き込まれる。
北畠顕信が立て籠もったり高帥直に焼き討ちされたり足利直義が子供を亡くしたり後村上帝が落ち延びたりと何度も登場する巻があるので、一度は行ってみたいと思っていました。
しかし着くなり余のお腹に鎧が走る!慌てて近くの厠に駆け込んで驚いた!
山の上の所為か水洗じゃない。今時ぼっとんだぜ。ゆとりにゃ解らないこの恐怖!

境内にはなぜか発明王エジソンの記念碑があった。
なんでもエジソンが発明した電球のふぇらメントはここの竹を使ったものだそうだ。
「俺の竹を使え!」
「すごく大きいです」

駐車場裏には竹藪が広がっているが、地形がなんとなく城跡に見える。
要害なだけに掘り割りや土塁が築かれていたとしてもおかしくない。
これはその時の名残であろうか?

男山(漢山ではない)の麓にある飛行神社に立ち寄りました。
表にはまるよんのエンジンが展示してありました。
戦前、飛行士達はここにお参りする習慣はありましたとか。

再び高速に乗り京を去る。
次は大津にある石山寺
着いて思い出したがここは紫式部ゆかりんの寺。
閉山30分前だと言うのに結構観光客が溢れていた。

そして入山して更に思い出す。今年は源氏物語生誕千年な年だ。
参道は源氏物語マンセーなオブジェで埋め尽くされていた。
なんだよこれは?正直言ってセンスよくないと違うか?
これじゃ原宿みたいじゃないかよ。ちょっと興ざめ。

しかし流石に石山と呼ばれるだけの事はある。境内にそびえている岩山は迫力あった。
ガイドによると天然記念物の珪灰石というらしい。
のんびり見物したいが何せタイムリミットが迫っている。一見しただけで先を急ぐ。
展望台に昇ったがここから琵琶湖は見えなかったよ。
昔は見えたのかもしれないが、ちょっとがっかり。

最近出来た紫(ようぢょではない)式部像。モデルはやはり吉永さゆりんかぁ!!
余も春・夏・秋・冬・テーマパーク六条院を造りたいッス!!

本堂。紫式部の間は有料なので入りませんでしたが、今更ながら見ておけばと劇場後悔してます。
簀子縁に飾ってあった屏風は綺麗でした。余も欲しいっス。

閉山してしまった石山寺を後に琵琶湖方面に夕飯を求めてさまよう。すると十数年前に通った様な場所に出た。
琵琶湖湖畔に築かれていた膳所城跡だ。覚えているか通りすがりの人よ!
ここで暫し休憩する。城跡は公園となっているが遺構は見られない。がっかり。

膳所城から見た琵琶湖大橋。今思えばこっちよりも瀬田大橋を撮ればよかった。
瀬田大橋は池波正太郎の剣の天地でのラストシーンに出てくる橋だが、車で渡ったので写真を撮る暇がなかったよ。
この後はまた高速に乗って寝場所探し。
今夜もトラック達と場所取り合戦かと思いきや、草津PAの第二に行ったら意外と空いていていい場所を確保出来た。
その夜は酒呑んで早めにダウン。明日もいいことアルトいいな。

翌日は近江商人の里に向かう。景観が美しい場所だという。
時代劇でよく見るあの風景だ。
頭の中に自然とEND曲が流れてくる。当然ジプシーキングだ!!

ででん、でん、でーん、ででん、でん、でーん、ででん、でん、でーん・・・・
ちゃらちゃ、ちゃらちゃ、ちゃんちゃん、ちゃららちゃらちゃーん・・・・
ああ、文字ではうまく表現できない。

この教会は八幡堀の帰りに信号待ちの際に撮ったもの。交差点の前に建っていた。
立派だったので思わずシャッターを切った。
「教会に行くのは今日かい・・・・?」

近江八幡市の次は二十年ぶりの安土城。誰もが知っていると思うがあの織田信長のお城である。
嘗て来た時は出入り自由だったので早朝に行ってゆっくり朝飯を食べようかと思ったのだが、久しぶりに行ったら入山するのに有料になっていたYO!!
しかも駐車場も別料金で9時まで入れないYO!!
しかたがないので駐車場前で9時まで待つ。月日の流れは惨いものだ。

9時少し前に受け付けのお姉さんが来たのでさっそく入山料を払って登城する。
まあ史跡として管理するにはお金がかかるのはやむを得ないか。
しかし駐車場が別で500円ずつというのはどうかと思うよ。
こんなへんぴな場所で車だけ停めて城跡に来ない人はいないと思う。みんな安土城に来るのだからね。

本丸に続く急な石段を登っていると途中に石仏の標識がある。石段を作る際に近くの道祖神とかを使った物だ。
有料になったおかげでこの様に整備されたのだと思うと有料化も納得出来る。するしかない。

ニノ丸手前から昇ってきた石段を見渡す。結構キツイ勾配である。今回の旅行ではいろんな階段を昇ったが、ここもしんどかった。今度は飲み物を持参しようと決意した余であった。

ニノ丸には信長のお墓がある。秀吉が作ったらしい。
信長が死なずに天下を治めていたらどうなっていただろうか?歴史にIFは禁物であるが考えてしまう。

本丸に着く。画像は天守台の入り口。本丸を見て思うのは意外と狭い事だ。
山城だから仕方がないとしてもここに紫宸殿もあったというから手狭だっただろう。
さてここを昇れば天守台だ。

天守台の内部。不等辺八角形なのだが画像には収まらない。なので雰囲気が伝わらないだろう。
しかし安土城天守はハイカラなのでぜひ復元してくれないだろうか。
そういえば伊勢にある戦国村に安土城があったが今はどうなっているのだろうか?

天守台底面ローアングル(w
前に来た時はBB弾が落ちていたが、今はきれいに掃除されていてなかった。
周囲は木々が立ちこめていて景色が見えない。もう少し選定してもいいのではと思う。

峯続きの山にある総見寺。ここの本尊は信長がその辺から拾ってきた石だった?!
今城跡に残っているのはこの山門と塔だけである。
とにかくここも石段が急である。ニノ丸から来たので裏から石段を下って写真を撮って再び昇る。疲れる。

山門の後ろには三重の塔がある。
この三重塔だが後ろの斜面の方が高いのでこんなアングルから写真が撮れてしまうのである。

塔の後ろはこんな感じになっている。
二の丸から来ると後ろの石段上に出るのだ。
塔の屋根に登れてしまいそうです。
さすがに登れないように有刺鉄線が張り巡らされていました。

安土城見学はこれでおしまい。
次に向かうは1キロ程離れた場所にある信長の館だ。

外見は近未来的だがここにはなんと復元された安土城天守閣があるのだ。

と言っても五階より上だけだけどね。
これは主殿の上にある望楼部分の八角形の櫓。
信長の趣味で柱は朱塗りの真っ赤っ赤。ちょー派手。

おまけに至る所に金箔が張り巡らされている。
あ〜んな所や、こ〜んな所まで。
最上階は金キラ金だ。
屋根の裏側まで金ピカだ。

もちろん展望台(w)の手すりも金ピカリン!
まるで金閣寺が乗っかっているみたいだよ。

金ピカに圧倒されながら7メートルぐらいの階段を上がって望楼部分に昇る。
最上階は真四角になっている。
内部は豪華な障壁画で飾られている。装飾も煌びやかである。

天井にも障壁画が張り巡らされ枠は黒漆塗りでど派手。お城と言うよりも御殿である。
この前行った東照宮もこんな感じだったな。

扉だってきれいな彫刻が入った高そうな作りだ。
なんでもこの復元天守はスペインでの万博で日本のパビリオンに展示されたものを安土町で譲り受けた物だそうだ。
おかげで余も拝見する事が出来たよ。
スパシーボ!

信長の館から見た安土城全景。
真ん中の頂に天守閣があった。
いつかはあの山のてっぺんに天守閣がそびえ立つ日が来る事を祈ろう。

安土の後は彦根を通って高速に向かう。
途中で彦根城の城下町を通過。信号待ちで止まっていると店先に彦にゃん発見!
思わずカメラを向けて激写!さすがは本場だと思いました。

次にやって来たのはなぜか関ヶ原古戦場でした。
画像は石田三成の本陣跡。
関ヶ原と言えば天下分け目のやつですが、実は262年前にもここは太平記でも戦場となっているんですよね。
延元三年(1336年)1月24日と26日、南朝北畠顕家率いる奥州軍は、高帥冬今川範国土岐頼遠等率いる幕府軍と青野原と呼ばれていたこの場所で戦ったのだった。
ちなみに顕家軍が東から西にいる幕府軍と戦った。この時も東軍が勝った?!
顕家はこの戦いには勝利したが、この後京へ向かわずに伊勢に転進してしまったので後世の評価が分かれる事になるが、余は京の情勢や自軍の状況から入京は無理と判断した結果だろうと思っている。
他人の行動に対して後から第三者があれこれいうのは誰にでも出来る事だ。その時の事は当事者でなければ解らないよね。

三成本陣から家康本陣方向を見た所。
初めて来たが結構狭いんじゃないか?ここで十何万もの軍勢が戦ったんだなぁ。
かつての戦場も今では田圃が広がっている。

三成本陣にある記念碑。一見すると普通のハイキングコースにしか見えない。
標高は2、30メートルぐらいか。見晴らしはいい。
平日だというのにちらほら人がいるが、さぼりの営業マンらしい人ばかりだ。

ふたつ上の写真左方向にある決戦地の石碑。
田んぼのど真ん中におっ立っている。
左後ろ手前の小高い山が三成本陣。
やはり最期は三成が追いつめられてしまったんだな。
こんな間近まで攻めてこられたらヤバイっす。
辻ーんや富永だったら「転進!!」って叫んで180度方向転換だよね。

三成本陣から2キロぐらい離れた所にある小西行長本陣。
ここでは躑躅がきれいに咲いていた。
こっちは平らな場所である。
この付近が開戦地だったらしい。

今度はさらに南の宇喜多秀家本陣。
なんでも宮本武蔵もこの辺で戦っていたらしい。
三成と行長は戦後捕らえられて切腹や斬首されたが、秀家は島流しになって長生きしたそうだ。

家康、最初の本陣の桃配山。
関ヶ原太平記でも戦場だったが、更に昔の672年壬申の乱の時も戦闘が行われた。
この時に大海人皇子将兵の士気を鼓舞するために桃を配ったとされるのがこの場所だったそうだ。
それから928年後の同じ場所で天下を左右する激戦が行われるなどとは大海人皇子は考えもしなかっただろうな。
まあこれは地政学上の交通の要所である為の必然なのでしょうか?
交通量の多い交差点で事故が多いようなものか。

桃配山から見た三成本陣方面。
見た通り真下に国道がある。二十年前にジャスティで走った事があるのを覚えているだろうか?
その時は寄らなかったが国道の反対側に駐車場があったんだね。

最後はこにたん本陣で見たパピヨン
なかなか芸術的な写真だと自負している。

これでこの旅は終わりである。
この後は高速に乗って帰路に着いたのであった。
三回に渡ってつき合ってくれた諸君には礼を言わせてもらおう。
これからも旅先での出来事を掲載していくつもりなのでよしなに。
Ate breve! Obrigado!