大保原合戦

今日は久しぶりに歴史のお話です。
興味のない方はスルーして下さって結構です。
かなり偏見に満ちた文章なので、歴史の授業には役に立ちませんからね。

さて、余が太平記に入れ込んでいる原因にこれらの書物がある。
北方謙三さんの小説「武王の門」と坂井藤雄さんの「征西将軍懐良親王の生涯」である。
太平記は所謂ところの鎌倉幕府滅亡から始まって室町幕府成立までを記した軍記物語です。
小説「武王の門」では後醍醐天皇の皇子である懐良親王が混乱期の九州に渡って
南朝方の勢力を扶植する過程を描いています。
「征西将軍懐良親王の生涯」は九州に於ける懐良親王の行動が記されています。
丁度その頃NHKで大河ドラマ太平記」が放送されて狂喜乱舞した覚えがあります。
勢い余って九州までドライブしたのはナイショです。
で、昨年に再び菊池まで行って来たのも、このブログで紹介していますね。

で、今回の話題ですが本日8月7日はこの武王の門上巻のクライマックスである大保原合戦が行われた日なんですねぇ!
今を去る事650年前の正平14年(北朝歴延文4年)の8月7日未明から始まった大保原合戦では
足利幕府方の少弐頼尚南朝方の懐良親王菊池武光が九州の覇権を巡って戦いました。
合戦の結果は少弐頼尚が撤退して南朝方の勝利となりました。
合戦後、近くの小川で菊池武光は血だらけの太刀を洗ったそうです。
その場所が後世の大刀洗となり、旧日本陸軍の航空隊が置かれた事でも有名です。
嘗ての飛行場の近くに石碑がありました。
ちなみに幕府を造った足利尊氏は、前年の延文3年に亡くなっています。

大刀洗飛行場だった場所は今では工場や民家があって当時の面影はありませんが
公園があってそこには菊池武光銅像が建っています。
こうして少弐頼尚を打ち負かした懐良親王率いる征西府は、
2年後に大宰府に入って九州ので南朝方の最盛期を謳歌するのであった。
これも全ては武光を主とした菊池一族の忠節の賜であった。
菊池武光太平記でも有数の武将といって過言はないでしょう。
彼がいなかったら征西府は九州の覇権を手に入れる事が出来たかどうか?
そして武光と懐良親王の組み合わせこそが、征西府の繁栄には欠かせないものであった。
こうして征西府は九州探題となった今川了俊によって大宰府を追い払われるまでの約11年間、
九州で南朝方の黄金時代を築き、その短い光芒を歴史に残すのであった。

 北畠一族

最近、まじめな話がなかったので、久々に歴史の話です。
今回の主人公は太平記で大活躍する北畠一族でございます。
NHK大河ドラマ太平記DVDおもしろいぞ企画という事で。

大河(手乗りではない)では北畠親房近藤正臣さんが演じていました。
とってもかっこいい策謀家です。
実際の親房は太平記の頃はすでに出家していたので丸坊主なハズなんですがね。

親房の長男である顕家はゴクミこと後藤久美子さんです。
今見るとすごいキャスティングですね。

親房には顕家の下にも顕信と顕能と顕雄といった子供がいるのですが
大河ドラマではこの親子にしか出番がありませんでした。
顕信が奥州で活躍する話なんか小説で出ないものですかねえ?
それとドラマにゃ出番なしですが九州で懐良親王と一緒に活躍した冷泉持房という公卿がおりますが
彼は親房のリトルブラザーだったそうです。
一族総出で南朝組みたいですよ。

さて、この親子の出番ですが鎌倉幕府が滅亡してからです。
なんでも倒幕の頃は出家していてヒッキー状態だった親房さんです。
後醍醐天皇による建武の新政によって顕家が陸奥守となり
後の後村上天皇となる義良親王を奉じて奥州に出向いた際に親房も同行するのであった。
陸奥国府は多賀城ですが、最近だと当時の多賀城は荒れ果てていて使われず
近くにあった岩切城が国府として活用されていたとの説が有望らしいです。
ちなみにここに車を停めた時、バンパーに傷があるのに気が付いた。
どうやら前日の宿に駐車した時にぶつけられたらしい。くやしい。

その後、足利尊氏後醍醐天皇に反旗を翻した時、
顕家は奥州の軍勢を率いて上洛して尊氏を九州に追い落とすのだが
尊氏は九州で復活して上洛、湊川楠木正成を破り京を占領、後醍醐天皇は吉野に逃れるのだった。
その頃陸奥に帰っていた顕家は足利方の勢力が盛んな為に福島県の霊山に国府を移転させていた。
この山の上に国府があったのだが、往復四時間は掛かるので登った事はない。
いつかは俺たちの頂を目指したいものだ。
この時親房は同行せずに京に残った後に伊勢に向かっている。
親房は伊勢で勢力を伸ばして今後に備えていたのだった。
その後、顕能を経て伊勢は北畠氏の領国となり戦国時代まで続くのであった。

霊山には北畠一族を祀る霊山神社があって顕家の銅像がある。
ここは険しい山なので足利方も攻めあぐねていた。
こうして顕家は南朝方が苦しい中を上洛の機会をうかがって力を蓄えていた。

そしてついに二度目の上洛軍を出兵させるのだが京に突入する事は叶わず畿内を転戦。
河内の阿倍野で幕府執事高帥直と闘って討ち死にするのであった。
享年二十一歳。
蘭陵王とも称えられた美貌の青年公家であった。
なお顕家の戦死の場所は何カ所か諸説があるが、これは阿倍野にあるお墓である。
近くに阿倍晴明の神社があった。

顕家のお墓からさほど遠くない場所に顕家と親房が祀られている阿倍野神社がある。
なにかよい北畠グッズはないかと思ったのだが、これといった物はなかった。
ちなみに天童には顕信を祀った北畠神社がある。
それと伊勢には顕能の北畠神社も。
しかしこの二カ所は行っていない。
次の目的地はこっちだな。

境内には霊山神社にある顕家の銅像とおなじものがある。
顕家は戦死の一週間前に後醍醐天皇に対して建白書を奏上している。
内容は建武の新政への批判である。税の免除とか地方分権とか贅沢禁止とか。
彼は後醍醐政権の為に死力を尽くしながらもその政治内容には批判的であった。
そこに官僚としての顕家の限界があったと思う。残念である。

顕家亡き南朝方を背負って立ったのは父親房であった。
親房もどちらかというと後醍醐天皇の政治には批判的な立場で倒幕運動には関わらなかったのだが、
建武の新政下では顕家とともに東国経営に邁進するのであった。
しかし顕家を失った後は、主亡き東国で南朝方を立て直す為に板東に下向するのであった。
伊勢を船出した時、同行したのは義良親王宗良親王、結城宗広、そして鎮守府将軍となった顕信もいたのだが
折しも台風によって船団は難破、親房の船だけが常陸にたどり着いたのであった。
当時常陸と呼ばれていた茨城県に着いた親房が最初に迎えられたのが神宮寺城であった。
今は民家の裏に小さな石碑が残っている。

その後近所の阿波崎城に移動。ここも城というよりも砦と言った感じの小さな山である。
しかしすぐさま足利方に攻められて脱出。
霞ヶ浦を遡上して北に逃れたのだった。

そして親房が入ったのは筑波山の麓にある小田城だ。
あの神皇正統記を執筆したとされている場所である。
城主小田治久は後醍醐天皇から尊治の治の字を貰っているほどの南朝方の武将である。
親房は小田城を拠点にして約五年間を東国経営に勤しむのであった。
この間に後醍醐天皇崩御されていた。
後を継いだのは親房とともに陸奥に赴いた義良親王で、後村上天皇である。
親房は盟主と仰いだ後醍醐天皇を失った後も戦い続ける事に疑問を感じなかったのであろうか?
それでも親房は剣を納める事はなかった。後醍醐天皇の意志を受け継いだのは間違いなく親房だったのだ。
しかし親房は所詮公家である。彼は武士は公家に仕えるのが当然と考えていたので武士達からの支持を失っていく。
この間、親房があてにしていた武士が宗広の子息である結城親朝だったが、
親朝は結局は親房の誘いに乗らず、ついには足利方に付いてしまうのである。

やがて小田治久も足利方に降伏すると親房は関城に入り徹底抗戦の構えを見せる。
関城は南の大宝城とセットでかなり要害な地形にある。
親房は関城で興国二年から四年まで踏ん張る。
しかし関城もついに落城、親房は空しく板東を去るのであった。

ここで親房と共に板東で活躍した一族に春日侍従顕国がいる。
顕国は大宝城にいたのだが関城落城と同じ時期に大宝城も落城。
しかし馴馬城で再起して翌年に大宝城を奪い返すのだが再び攻められて落城。
この時捕らえられて斬首させられてしまったのであった。

東国経営の夢破れた親房が、いつ吉野に帰還したかは不明である。
親房が吉野で台頭してくるのは観応の擾乱においてである。
観応の擾乱は足利幕府内での権力抗争で副将軍足利直義と執事高帥直が対立し尊氏も絡んでの内乱である。

楠木正成の子息である正行正時兄弟を打ち破った帥直帥泰兄弟は吉野に攻め込む。
後村上天皇は吉野を逃れ賀名生に入る。今でも御所として使われた民家が残っている。
観応の擾乱は帥直が直義に殺され直義が尊氏に殺されて幕府内は収まるのだが
この間尊氏が京を離れている間に南朝方が京に攻め込む事があった。
尊氏との和平交渉、北朝の接収指令、京侵攻計画等の采配をしていたのが親房である。
親房は顕能や楠木正儀を率いて尊氏の子義詮が守る京の占領に成功する。
そしてこの報酬として後村上天皇から准三后を授けられる。これは皇族や摂関家にしか与えられなかったものだ。
この時が親房の絶頂期であっただろう。

しかし、南朝方による京支配は長くは続かなかった。
京は大都市であるが食料は輸送に頼るしかない。
大軍を引き連れての京占領には膨大な補給を必要とする。
だが南朝方には有効な補給手段が確保されていなかった。
それ故に義詮はあっさり京を明け渡したのだ。
まああっさり過ぎて北朝の宮様方を連れて行くのを忘れた為に苦労するのだが。
食料不足になって疲弊した所を義詮に攻められて親房は京を放棄して山城の石清水八幡がある男山に籠城。
しかし男山もついには放棄して賀名生に撤退する。
この撤退戦で、南朝の重鎮四条隆資を失い後村上天皇は褐色鎧姿に乗馬へ神器をくくりつけて男山を逃れた。
翌年、南朝に降伏した尊氏の諸子である直冬と共に再び京の占拠に成功するが、やはり長続きせず一月で撤退。
京を支配するには畿内の土地と経済を支配しなければ困難なのであった。
その力を得る事が出来なかった事が、南朝が軍事的に京を奪還出来なかった最大の要因であろう。

翌年の正平九年、北畠親房は賀名生にてこの世を去るのであった。
享年六十二歳。
後醍醐天皇の意志を継いで南朝の再興にすべてを賭けた人生であった。
この後、顕信と顕能も南朝の再興を目指してひたすら闘い続けるのであった。
北畠一族は、九州の菊池一族と共にひたすら南朝に尽くした希有な一族である。
そんな彼らを魅了した後醍醐天皇という人物が偉大だったのか。
それとも親房の存在が異色であったのか。
人はすべてを賭けるに値する何かを見出した時に、負ける事も辞さない闘いに挑む事が出来るという事か。
こんなご時世だが、余も大儀を胸に抱き続けたいものである。

 我が名を言え

さて、今回は少しまじめな話をひとつ。


これは皆さんも見た事はある有名な絵ですが、この人物が誰なのか知っていますか?
余と同じ世代の人でしたら教科書とかでも見たので「源頼朝」だと答えるでしょうね。
これは京都は高雄の神護寺にある「絹本着色伝源頼朝像」なのですが、近年になってこの人物は足利直義だと言われ始めているのです。

こちらは「伝平重盛像」と伝えられてきたのですが、足利尊氏という事になりました。
余も十ン年前に神護寺に行った際には見てきた覚えがありますよ。

これが神護寺。時代劇ではこの石段でチャンバラが繰り広げられる事が多い。

なんでも描かれている人物の服装が平安時代のスタイルではなく鎌倉末期のものなんだそうです。
余はずっと頼朝と思ってきたので、時代が変わると教科書の内容が180度ひっくり返ってしまうから困ったもんです。
騎馬に乗ったザンバラ髪の武将像なんて尊氏だったのが今は家来の高帥直だもんね。
今を去る事十数年前に上野の国立博物館に行った時ですが、売店に頼朝の絵の掛け軸が売っていたんだすよ。値段は十五マソ!
当時はとても高額なので買えませんでしたが、スゲー欲しかった。今でも欲しいが、その時買っていればとつくづく思う。
そうしたら今頃は直義様マンセー!!とか言って毎朝拝んじゃってたんだろうな。(憎っくき幕府方なんだけどね)

なんかこんなの書いていたら、また京都に行きたくなっちゃったよ。

良成親王


さて、上の写真を見て欲しい。
これは福岡県の山の中にある良成親王のお墓である。
これも菊池同様GWに旅行に行った時に寄った所だ。

何を隠そうこのブログの筆者の名前の由来はこのお方からである。

どの様な人物かはこれでおわかりいただけると思う。
まあ、つまりは北方太平記続きのミーハーなノリからだ。
「武王の門」ではほとんど出番はないのだが「黄花太平記」というHPではけっこう活躍する。
今のナウはこの人という事でブログのお名前に拝借したのであった。

 菊池一族

さて歴史のお話だが、画像は熊本にある菊池神社である。今年のGWに行った時に撮影したものである。
なぜ菊池神社かというと太平記が好きだからである。
中でもこの時代に九州で活躍した菊池武光達菊池一族が魅力的であるからだ。
自分がはまった理由だが今からウン十年前にボニータコミックで購入した湯口某の漫画を読んだ。
それから鎌倉時代物にはまって同人誌買いまくっていたら足利兄弟を扱った同人があった。
宇都宮某の同人であった。この同人誌に巡り会ったのが、太平記に転ぶ先触れだった。
それに北畠顕家の話があった。これが転機である。
顕家にはまったら北方謙三の顕家を主人公にした小説「破軍の星」を知った。
買って読んだら同じく太平記を扱った「武王の門」という作品に出会った。
これが懐良親王菊池武光を主人公とした小説であった。

これが菊池武光銅像です。どうぞぅ!
ちょうどその頃某放送局で大河ドラマ太平記」が放送されてマンセー
しかしドラマでの菊池一族の扱いはアウトオブ眼中!
足利尊氏とタイマンする多々良浜合戦すらカットされていたよ!!
まあ太平記とはその頃からの付き合いだ。
菊池へはエスカフローネが放送されていた頃に一度行ったのだが、今年になって再訪したよ。
どっかのブログじゃないが車中泊で五泊六日の有意義な歴史オタの冥利に尽きる旅だった。
話は尽きないがこの話題は今宵はこれまで。
ではまた。