津軽平定戦 その四

いよいよ今回の津軽平定戦も今回でお終いです。
根城でとある情報を入手した余は、来た道を引き返す事にしました。

で、明治大帝!
ってここはドコ?!

同じく明治記念館
かつての八戸小学校講堂である。
が、残念な事に中は見学出来なかった。
頼むから開放してくれ!

って、ここはドコかというと、八戸にある櫛引八幡宮である。
驚いた事にUSエアフォースご一行様のバスが停まっていてジンガイでいっぱいだった。
マリーンの迷彩服を着ていた余はなんとなく浮いていた感じだったよ。

ところで何故、余が根城から引き返してきたかと言うと根城でこの写真を見たからだ。
この写真は歴史の教科書とかで見た事がある国宝赤糸縅鎧(左側)だが
それがあるのが櫛引八幡宮だったのだ。
根城からすぐ近くとは思わなかったよ。
ちなみに赤糸縅鎧は兄君の長慶天皇使用の鎧だよ。
袖や兜の返しにある雲や菊の飾りがゴージャスだ。
右の白糸縅褄取鎧も南北朝時代の国宝だぜ。
実物は宝物館に飾ってあるので撮影禁止だ。
なのでこの写真は根城にあったもの。
やはり余は大鎧が好きだ。当世具足は体にフィットしすぎてイマイチ。

近くのスーパーで弁当を買って南下する。
途中に一里塚があったので脇の東屋で昼食にする。
道の両側に、ちんまりとした塚がきれいに二つあって和む。
しかしすぐ側の民家の犬がやたら吠えまくる。うるさいヤツだ。

そして余は岩手県に入る。
で着いたのが九戸政実の乱で有名な九戸城。
九戸政実の乱は秀吉の小田原征伐の翌年に起こった出来事で
秀吉の天下統一最後の戦いとも呼ばれています。
確か大河の伊達政宗でそんな話があったような。蒲生氏郷と争っていた様な気がする。
って、余も九戸城に行くまで知らなかったよ。

地図とにらめっこして、近くにお城がないものかと探し
三戸、七戸と行ったから一戸とか六戸とかもあるんだろうなと思っていたら
ちょうど帰り道に九戸城があるから寄っただけなんだ。
そしたら想像以上に立派だった。
ここは二の丸東側の空堀。でかいぞ。

二の丸搦手門跡。
ここだけ見ると田舎のたんぼ道にしか見えない。

しかし二の丸から本丸を見るとでかくてすごい!
でっかい空堀にはちょっと似合わない橋が架かっていた。

橋を渡ると本丸追手門跡。
石垣によりきれいな枡形が残っている。

本丸内は草野原だ。
広さは100メートル四方ぐらいで、けっこう広い。

本丸西側の空堀
本丸側の城塁は6メートルほどの高さがあり、上に立つと迫力満点だぜ。

本丸から見る二戸の街。
何故か九戸城は二戸市にあるのだ。

先ほどとは反対側から二の丸方向を見る。
こう見ると本丸と二の丸の高さの違いがよくわかるだろう。

本丸西側虎口。
ここも枡形が形成されている。
よく見ると本丸を囲む空堀が、ここで互い違いになっている。
見事としか言いようがないほど、すんばらすィ!

本丸を示す碑と井戸跡。
後ろの城塁に櫓があったらしい。
桜の咲いている時に来たらきれいだっただろうなぁ。

二の丸から本丸を見る。
城塁の高さがよく解るだろう。
こんなきれいな場所が小山の上に広がっているのだ。
行ってみるものだとつくづく思わされた城だよ。

二の丸にある立体模型。
余は真ん中の大手門から入って反時計回りに見物した訳だ。
こうやって模型を見ると全容が解りやすい。

先ほどの隅櫓があった城塁。
今は桜があるのみ。
歴史は黙して語らず。

二の丸大手門。
自動車だと脇から入る。
こう見ると道路の反対側にも遺構が残っている感じだな。
時間があればもっと周囲を見て回りたかったよ。
しかし九戸城は想像していたよりも規模のデカイ立派なお城でしたよ。
前知識無しで行くのも予想をイイ意味で裏切られて楽しい。

本丸全景。
こんなだだっ広い広場みたいで気持ちのいい所です。
ここは自信を持ってオススメ出来るお城です。

二の丸の端っこでは新たな発掘調査が行われていた。
もしかしてこれが産経新聞に載っていたという
「虐殺された籠城者の人骨か 秀吉に反抗の九戸城で出土」の場所か?!

二の丸の城塁。
これもけっこうな断崖である。
攻める側としては登るのが大変だっただろうな。
手前の道路は水堀だったらしい。

九戸城全景。
高台に木が生えている平坦部が見えるだろうか?
そこが九戸城である。
わざわざ反対側の市役所裏まで行って撮影したぜ。
また不審者的行動をしてしまったよ。反省シル!

九戸城からの帰り道、二戸の街から国道四号線に出ると眼前に巨大な岩がそびえていた。
左が男神岩で右は女神岩だ。
この後は国道を使って盛岡まで行くつもりである。
国道でも信号が少ないのでトラックでも結構スピードが出ているので順調だ。

4時ぐらいに盛岡市に入る。
町中を走っていると左手に堀割の様なものが見えたので脇道に入ってみる。
すると幼稚園に出た。どうやら幼稚園の周囲が堀になっているようだ。
しかし車を駐車出来そうな場所がない。
これではまた不審者になってしまう。

仕方がないのでまた表道路に出る。
地名を見ると安倍館町となっている。
これはもしかしてと、周囲を探すと看板があった。

これがその看板だ。
どうやらここが前九年の役での決戦場であった厨川柵のあった場所らしい。
偶然走っていてたどり着いたよ。
前九年の役と言えば「炎立つ!」だ。
里見浩太朗アテルイはかっこよかったよ。

今回の旅で最後に立ち寄ったのは、盛岡にある志波城古代公園だ。
ここは数年前に東北道を走っている時に高速から見えたので存在を知った城である。
それまで寄ってきたお城はみな鎌倉時代から後のお城だったが
この志波城は平安時代初期の城柵である。
坂上田村麻呂の奥州征伐の拠点になったとされているが、志波城はわずか10年足らずで廃城となったらしい。

南門と手前の堀に掛かる端。
以前、仙台にある多賀城に行ったことがあるが多賀城もこんな感じだったのだろう。
やはり建物が復元されるのはイメージが掴みやすくてよい。

外郭南辺の堀。志波城の周囲を囲んでいたのだろう。
しかし深さは浅い。当時はもっと深かったのだろうな。

大路である。
なんとなくえさし藤原の郷を思い出させる。

政庁跡に復元された官衙建物。
一棟しかないが当時は軒を並べていた事であろう。
余が着いた時には見学時間が終わった直後だったので
鍵を閉めたおねいしゃんが立ち去る所だったよ。

南門と城壁に造られた櫓。
中世戦国期と違い、いたってシンプルな櫓である。
これも藤原の郷にあった城壁を思い出させるなぁ。

志波城を見終わって夕方5時すぎ。
近くのサティで晩飯を買って盛岡インターから高速に乗って帰路に着く。
途中の平泉前沢インターからすぐ先の横に大きな桜の木がある。
この前、平泉に行った時に気づいたので、今回は走行中に写真撮影をしてみた。
しかし上り車線からだと防音壁が途切れるとすぐにあるのでピントが合わなかった。
この桜の木の下に、なにか看板があるのだが、それがなんだか誰か知っている人がいたら教えてください。

菅生PAで一晩過ごして翌土曜日に帰宅。
もちろん高速料金は1000円だ!!麻生さんに感謝!!
今回の津軽平定戦四日の旅、愛車「本田はおにぎり号」の走行距離は1645キロでした。
今年は念願の東北旅行が出来たので、来年のGWは北畠一族の本拠地である三重県に行きたいなぁ。
それか東海道城郭巡りな旅もいいなぁと思う余であった。

この度は四回に分けての東北旅行レポートにお付き合いいただきまことにありがとうございました。
いつか貴方の住む町にも「本田はおにぎり号」が現れるかもしれませんよ。
では。